NTLive語る会vol. 1――『マクベス』の回
2019/02/23 13:30〜16:00
東京大学駒場キャンパス
司会進行:河合祥一郎(東京大学教授)
ゲスト:松岡和子(翻訳家、演劇評論家)、兵藤あおみ(演劇ライター)、柏木しょうこ(字幕翻訳家)、中村未知子(カルチャヴィル)ほか(敬称略)
2019/02/23 13:30〜16:00
東京大学駒場キャンパス
司会進行:河合祥一郎(東京大学教授)
ゲスト:松岡和子(翻訳家、演劇評論家)、兵藤あおみ(演劇ライター)、柏木しょうこ(字幕翻訳家)、中村未知子(カルチャヴィル)ほか(敬称略)
*2/24早朝公開、午後修正
見逃した君たちへ上映
吉祥寺オデヲンにて「マクベス」
3/22(金)~
「語る会」の話を聴いてたらもう一度見たくなった!見れば良かった!叶えられます吉祥寺オデヲン。
神戸アートヴィレッジでは上映に合わせてなんと講座もあるみたいだよ
「マクベス」
4/13(土)~4/26(金)
https://www.kavc.or.jp/cinema/4102/
講座(全4回)
*要事前申し込み
詳しくはホームページにて
https://www.kavc.or.jp/events/4146/
4/12(金)第一回
4/19(金)第二回
4/25(木)第三回
※第4回 は「マクベス」映画鑑賞
語る会、途中の「👈あっちだよ」看板が落下しているのを直しつつ方向を推測しながら来たのでRPGなのかもしれない。本当にあったかい部屋が待っているのか?— 夜は寝なさい (@yawarakaaomame) 2019年2月23日
今年で6年目を迎えるナショナルシアターライヴジャパン。昨年のシンポジウムに引き続き、今度は上映作品について語る会があるということで参加してみました。
映画館には足を運べてもリアルイベントは場所と時間の制約があるのと、なんとも酸素の薄い会だったので勝手に簡単なレポを残します。こんなマニアックなイベント(褒めてる)の初回ということもあり参加者のシェイクスピアリテラシーがバリ高ゆえ「シェイクスピア劇に一家言あって過去のマクベスはチェックしてるっしょ」という前提の展開だったので抜けや勘違いなどありますがゆるしてください。来世でがんばります。
「マクベス」はTOHO日本橋閉鎖の影響で小さいスクリーンに移動した事情もあったが、埋まり具合がちょっと他の作品と違ったので、定員100名って実は意外とギリギリなんじゃないかと思っていた。実際「開場」の十分前で既に三割ほど埋まっていたのでちょっと驚いた。年齢層は高めだが上下に広く、やや女性多め。一人参加も少なくなかったのでは。NTLiveが、と言うよりシェイクスピア作品の(長年の)ファンが多かったように思う。(もちろんローリー・キニアファンも!)最終的には七割ほど埋まっていましたね。
第一部、第二部それぞれ一時間ほど。トピックは特に決まっておらず、ゲストのトークの合間に挙手制で参加者が各々の感想・質疑を発表し、それについて考える、という感じ。大学の学科専攻の授業っぽい。発言も最初から結構飛び交ってたし、反応も大きかったし、「かなりアットホームな会」と書いてある通り、良い意味で自由でした。ただこれがシェイクスピア劇だからなのか、今後のNTLiveでもこういう空気なのかは全然わからんな。
発言者は河合先生=KW、松岡和子先生=MK、兵藤あゆみさん=HD、柏木しょうこさん=KGと敬称略でイニシャル表記しています。勘違いとかもあるから鵜呑みにはしないでほしい。
第一部
- ローリー・キニアはめちゃくちゃ巧い。彼の台詞だけで劇が成立してしまう。
- 原作から大胆に刈り込んでいるが、その意図が表現出来ているか?そもそも意味があったのかは謎。
- ローリー・キニアマクベスは惚れ惚れするほど巧いし、一生懸命でかわいい。男から見てもかわいい。
- MK「なんであんなに巧い彼にあんな演出を……」
*[]内は勝手なニュアンスの補足や付記です。
MK:すごくよかった……ところと、全然(笑)というところと。そのあたりみなさんの意見を伺いたい。
内乱という時代設定をポスト・アポカリプスとして現代化していたが、良し悪しがある。たとえば、いきなり既に荒れた土地から始まってしまうのか?[原作「マクベス」はダンカン王の治世(よかった)とマクベスの治世(荒れてる)の差が重要なため]
KW:ちなみにですが[野村]萬斎さんの「マクベス」も荒廃した世界から始まり、Witchesは家庭ゴミから生まれますが、回を重ねて最終的には核兵器ゴミから生まれるようになりました。
MK:...「マクベス」のキーワードは野心 ambitionとサバイバル survival(MK:柏木さんが素晴らしい訳を当ててくださった。単純に”生き残る”のではなく”生き残るための戦い”。)、罪 guilty。「マクベス」と「リチャード三世」は〈王になった後のライフプランがない〉のが重要なのに、あの書き方だと野心が見えてこない。現代化で「王」という存在そのものに意義がなくなってしまう。
MK:キャスティングが素晴らしい。最近はクォーターシステム[出演者の人種や性別の割合(出演の機会?)を平等にすること]で一部の役を女性に変えることが流行りだけど、作品の内発的なものと噛み合っていないものもある。今回ロスを女性にして、フリーアンスを少女にしたのは良かった。前半の老人とマクダフの会話をマクダフ夫人との夫婦の会話にしたのも。
KW:キニアはもっと出来る人なのに押さえられていないか。特にバンクォーの幽霊が出てくるあたり。
MK:バーナムの森も動かないし!
HD:あっさりしている分、人間関係を追うのにはよかった。
MK:ラストありきの作りでは。
KG:ざっくりでわかりやすいところと、雑に見えてしまうところが出てくる。例えば首をビニール袋に入れるとか・・。
字幕をつける前に見た第一印象は「上から降ってくる魔女と、下にいる、うごめている者たち」。魔女の台詞[具体的には忘れた]を翻訳するのを楽しみにしていたのに、台詞がカットされていて(笑)
これは普通の「マクベス」ではないんだと覚悟を決めた。
占い信じ過ぎると人間駄目になっちゃうんだな~って・・こんな話だったっけ(笑)
KW:魔女の出番が減ったからマクベスの「操られ感」が無くなっている。
MK:マルカムが王位継承者に指名され、マクベスが拗ねるシーン。周囲がストップモーションになって、マクベスにスポットが当たるの、……また?ってなる(笑)
KG:(マクベスが)人間としては一貫している。現代っぽさはすごく感じる。
マクベス夫人はもっと見たかった。彼女の[共犯に至る]動機も[この脚本だと]ちょっとわからない。ローリー・キニアがナイフの幻影を犬のように追いかけるのがかわいくて。また彼女が「この男ったら・・」という目で見てるのが(笑)
[マクベス夫人の]独白のシーンは日本語と英語の発音とリズム=調子が翻訳字幕と合わなくて苦労した。
KG:この二人には夫婦愛=お互いがお互いのためにやる、が無いように見えた。彼女を「強い女性」にはしようとしている。
MK:……ふつう~にやってほしかった(笑)
彼(キニア)は役の芯[とメモしたけど、「真」の方が適切かもしれない]に入っていけるんだから。
河合先生にまず最初に話を振られた松岡先生、「すごくよかった」が第一声だったのにつまるところ「でもなんでこんなことしたの???」という論調だったので笑ってしまった。
おれはポスト・アポカリプス設定にすることで通信機器を使わない理由が成立するところが「現代化」の最たる恩恵だと思っているので、どちらかというと世界が荒れ果てている方が嬉しい。
またマクベス夫妻の持つ「強さ」から、指摘されているように王位への執着、野心が抜け落ちているのは確かだが、あんな世界で「立場」というか出世について平時と同じように考えられるものだろうか? どちらかというと罰ゲームめいた「責任」の椅子に見えてくる。そして彼も彼女も性質としては真面目で誠実なのに時代がそうあることを許さない、けれど生きてゆかねばならない、ならば、という悲壮な決意の果てに見えてくる。
クォーターシステムの話があったが、マクベス夫人の侍女が隻腕だった。あれは紛争設定だからか?
KW:戦争のためでしょうね。今回はキャストのミニマム化も目立った。特に門番が伝令と暗殺者とマクダフ夫人に危険を知らせる役と。あんなに兼用する役はあんまり見ない。彼は良かったですね。戦争に翻弄される一般人でもあるのでは。マクベスに対して常に〈観察者〉として存在している。ただ、重要性があったかというと……(笑)
最後も[マクベスと一緒に戦いに参加するが]退場するのか、しないのか?
やっぱり魔女がもっと出てきてもよかった。
冒頭の首切りとマクベス夫人の自死と、はっきり「死体」を見せている印象。何故か?
河合先生も松岡先生も、舞台であそこまで死体が出てくるマクベスは見たことがないとのこと。マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤールによる映画「マクベス」は死体がガッツリ出てくるという補足あり。
KW:マクベス夫人の死は「飛び降り」が一般的な解釈。あのシーンは場所そのものも狭くなっていましたね。灯火をより狭い空間で見せたかったのかな。ただあそこでTomorrow Speach[マクベス夫人の訃報を受けたマクベスの独白を指す。参考]が止まっちゃう。朗々とした台詞を禁じられている。恐らく演出なんでしょうが。
KG:二人にとってプライベート[王と王妃の立場と比較しての「私的」]な空間を見せたかった?
医者が「身近に刃物を置くな」と言ったり。
MK:[あの場面を見ると、どうしてもこの作品の二人には]愛がない。
MK:昼と夜の対比をシェイクスピアははっきり書いている。
ダンカンが出てくるのは昼、マルカムが王位に就くぞと決めたのも昼。だけどマクベスが支配している間は夜。夜に悪事を働くし、ラストは夜から昼への転換。つまりマクベスの終わり。だからこそマクダフの「あいつが生きている間は朝は来ない」という台詞が活きる。
まあこの劇では全部無視して夜にしてるけど……(笑)
HD:世相の反映でしょうか
今回のマクベスはずっとダンシネインに居た気がする。イングランドはイングランドだけど、城から城への移動が無い。
KG:翻訳しながら感じていた。シェイクスピア劇でrideという単語をどう訳すかは重要。[基本的に遠出なので。]ハイトナー演出の「ジュリアス・シーザー」では戦車で移動していた。今回もrideか、でも現代化されているしな、と思っていたらバンクォーが「馬の調子が~」とか言うし、普通に馬で!(笑)
rideのスケールの狭さ。ずっとダンシネインにいる。このマクベスは人にフォーカスしている。
KW:城の移動がないということは、王位[だっけな?]の移動が無いということ。
MK:橋があるならもっと大胆に動かせばよかったのに。場所もあちこち表現できる。最初にあれが出てきたから、バーナムの森をどう演出するか楽しみにしていたのに・・。
魔女の出番が削られて「運命」から「運」の話にスケールダウンした感じはある。ただそれで一般人である観客に身近な話として受け止められるようになったのでは。あんな騙されそうなマクベス、見たことがなかったので・・。
KG:あんな占い信じてそうなマクベスね!いないですよね!(笑)
KW:……ローリーマクベスはかわいいの?
KG、HD:かわいいですよ!
KW:男性にはどう映ってるんだろう? 僕はね、イラッとしますw
ここで指名された男性ファン:かわいげはあると思います
KW:卑小な感じはする
[確か別の]男性ファン:僕はNTLでローリー・キニアさんを見て、一気に引き込まれてファンになったので、彼が見られたらそれでいい。出てたらいい、って感じです。
男性ファンにここまで言わせるローリー・キニアがすごい。
「シェイクスピアのことはわからないけどローリーマクベスについて喋りたい!」という人が参加できるのは良いところだな。司会進行の河合先生もそこを意識していた気がする。自分もゲストも結構喋りたいタイプのように見えたんだけど、それじゃ研究者や有識者による講演会や研究会になってしまうから・・という気持ちを感じた。
KW:「オセロ」のイアーゴはすんばらしかった! 武将としての彼がマクベスでも見たかった(笑)
死体の話から、マクベス夫人の死について
MK:バンクォーの亡霊が出てくるところは褒めます(笑)好きなシーン。We are yet but young in deed「私たちは悪事にかけてはまだ青い」でもその前でもWe「私たち」という主語を使っているのに、ローリー・キニアは一人で寝室に入って行く。セパレートされて、夫人は取り残される。もう二人が一緒に寝ることはないんだなと。何もかも一緒にやってきたのに・・というWeからaloneへのプロセス。ここからマクベス夫人は狂ったんだと思う。
「女から生まれぬ者」のオチが「帝王切開」なのに納得がいかないというか、ここは笑いどころなのか?と考えてしまう。日本語だと受動態になってしまうのも原因か?
KG:英語だとripで「腹を引き裂いて」というニュアンスはある。生まれたというか産み落とされたというか引きずり出されたというか。
KW:原文でも議論があるところです。あの時代の「帝王切開」だと母親は確実に死にます。「ハムレット」のオフィーリア埋葬シーン。墓堀人が「かつては女であったもの」と言う。死んだら男でも女でもなくなる、という世界観。生きている母からではなく、死体という動かない身体、かつて女だったものから「出てきた」のであって「生まれた」のではない。
KG:なるほど! もうひとつ疑問なんですが、「俺はローマ人のように自殺しないぞ」はどういう意味なんですか?「ジュリアス・シーザー」でも周りはどんどん死んでいくのにブルータスは自害しない。アントニーは失敗するし。
KW:(自殺は)基本的に成功しないからでしょうね。日本の切腹だって介錯が必要。一人じゃ出来ない。「名誉を守るために死ぬ」はローマ人的にはOKだけど、キリスト教的にはNGなので。シェイクスピアは「名誉」が好きなのでそういう台詞は結構出てきます。シーザーは銃が出てきたし。
「現代化」の話
MK:「メタルマクベス」では魔女は(バンドの)追っかけファンとして。長塚圭史さんの「マクベス」では客席にWitchesが座っている。バーナムの森は観客が傘を差して表現していますね。……まあ席に座ると青い傘が置いてあって、ああこれでやるのねってわかるんですけど(笑)KW:Witchesは基本的に「上げて落とす」。弄ぶというか移り気というか。
MK:ファンもそうでしょう(笑)好きな相手が何をしても好きという人もいるし、スッと離れる人もいるし。
イアン・マッケランとジュディ・デンチの「マクベス」は舞台がものすごくシンプルだった。
装置動きすぎ問題
KG:冒頭のルーファス・ノリス氏インタビューで「オリヴィエシアター、大きいんですよね……」とこぼしていた。ネガティブに訳せないから良い感じにしたけど(笑)今までの話聴いてると、愚痴っぽくしてもむしろよかったかもしれないですね。
「衣装が段ボールにガムテープ」「いちいち巻き直すのか?」「そのわりに赤いジャケットが何枚も置いてある」「あれは爆弾に見えたので、ISの自爆テロをイメージしたのでは」「確かに中東っぽさはあった」という会話がありました。みんなよく考えてるなあ。誰ですか? 段ボールガンダムとか言ってたのは・・。
ロンドンで実際に観劇した人のブログに「レディマクベスは手首を切り落として死んでいる」と書いてあった。
確認すると、なんと本当に左手首を切り落としている!KG:5回見たのに気が付かなかった・・!
NTLiveでのみ見ている先生方も参加者もみんな驚いていた。「血のシミが消えないから」ということらしい。このシーンは壁に赤い文字が書いてあるんだけど、それははっきりわからずにおわった。(S,A,・・?)
「そこ映してくれないんだ」問題、たまにあるなー。舞台そのまま提供したい気持ち、観客入れた状態で撮影するので物理的な制約が大きいこと、充分わかるけど、こういうとこ見落としてしまうんだな。
ここで第一部は終了。休憩後は別室移動で第二部に。
ちなみに鑑賞当時のおれの感想は
日比谷マクベス、こんなに引退間近に詐欺ビジネス引っかかって退職金全部失いそうなマクベスおるかな。— 夜は寝なさい (@yawarakaaomame) 2019年2月15日
以下ちゃんとリプライツリーに繋がるとしても怒られろ
第二部
飲食可能な部屋に移動。晩餐会みたいな長いテーブルに各々自由に座る。個人的には一番苦手なやつだったけど(強制されたわけではないので、単純に個人の性格と能力の問題です!)みなさん自然と交流されていてすごかったな~と思うこの感覚、あれよ、イベントでオンリーワンCPサークルとして座っているときのあれ。
- シェイクスピアの「マクベス」として見るか「○○の」「マクベス」として見るか
- 見た時に自分の中から言葉が出てくるのが良い舞台
- ローリーキニアはやっぱり巧い。だからなんであんな勿体無い演出を……。
柏木さんに「字幕のフォント変わりましたか?」と直接お訊ねしたところ(もっと頭使った質問してほしいよね)
KG:今回から日本で字幕をつけられるようになって! 変わりました。ちゃんと日本語対応のフォントです。
とのことでした。やった!すごい!明日はホームランだ!
日本語の滑らかさに関しても明らかに以前までと違うけど、母語だから逆に気が付かないかも。映画字幕の翻訳者と直接お話出来る機会はそうそう無いし、裏話はもちろん単純にお礼を伝えたいので(オタクは推しに関わる万物すべてに感謝の気持ちを抱くため)次回以降も翻訳者のゲスト参加が実現してほしいなー。
形式は変わりませんが、場も慣れてきたので参加者の質問募集から始まりました。
クォーターシステムの話が第一部で出たが、人数をミニマムにするのは流行りなのか、意義があるのか?また「原作と性別を変えた」のと「役の性別は変えていないが、演者の性別と一致しない」のはどこで見分けるのか?
MK:見ていればだいたいわかる。原文と字幕の違い。ここはHeのはずなのにSheになっているとか。一部だけ変えるか、オールメイルかオールフィメイルにしてしまうのもよくある。演者の肉体の性別に従うことが多いかな。問題は人種。
KW:[流行なのか演出なのか]演出家のさじ加減ではある。イギリスは組合(ユニオン)が強いので、舞台に実際に乗る[仕事を得る、というニュアンスだと思う]人間の性別や人種を重視している。それによって脚本上での役割や人間関係が弱まったり、辻褄が合わなくなる場合も勿論ある。
KG:「アマデウス」でも同じ話題が出ていた。サリエリを黒人が演じていたので。ルシアン・ムサマティが「それはあなたたち観客側の問題」と。「サリエリがどうであるかよりも、サリエリに見えるかどうかが大切」
(女性のままHeとして演じても問題ないのでは?)
MK:今は[キャラの]性別も逆転してしまうのが普通となってはいる。日本は宝塚歌劇団があり、女性が男役を演じるのに違和感はないし、演劇でも男性が女性役を演じるのはままあるが、諸外国にはまだ新鮮というか普通のことではないのでは?
最近だと「ジュリアス・シーザー」のキャシアスはとってもよかった。ただそれはそれとして、[原作のままの]ブルータスとの「男同士の痴話喧嘩」感も良いですよね。
内戦=テロに巻き込まれているという現代化はよかった。ただリベンジの理由がわからなくなってしまっている。
第一部でも繰り返された、刈り込まれすぎていてピンとこない構成になっている、という話。ダンカン王とマクベスの差異が無い。
KG:王子が誰なのかわかりづらくて、見ていく内に勘違いに気が付いて字幕も後から直しました。
シェイクスピア劇で衣装で王様がわからないのは珍しいらしい。
「全体的に暗い色彩の中で、王の周りの人間だけは赤いジャケットや赤いドレス、緑の服など鮮やかな色は着ている」という指摘もあった。
ただ、王の権威がないとそもそもマクベス自身が死ぬ理由もない、という身も蓋もない話も。
KG:何故、王がわかりづらかったか。みんなわりとフランクに喋る。ただマクベスだけは王への言葉遣いがバカ丁寧。彼が敬うことで、王が王らしく見える。誠実さが現れている。
KW:[自身の演劇のイギリス公演にあたり、イギリス人演出家が演者たちに]周りの人間がどう扱うかで「王」が生まれるから、と言っていた。
ローリー・キニアは台詞が明確で、本当に巧いよね。
みんなローリー・キニア好きすぎん?
あれだけ大がかりに用意されていた「橋」の象徴性がなかった。
[名前を失念しましたが、演出家の方がいらっしゃった]:普通は橋の上で演技させるのは諦める。腰に負担がかかるから。
「舞台装置の動く音が大きく聞こえるのは、本国ではLive=生中継で編集を一切していないから。他国に配信する際も一切手は入れていない」
確か松岡先生が「橋が動くからバーナムの森も凄いに違いないってワクワクしてたら・・ねえ~!」と最初から変わらないスタイルでおdisりになられていたのと、舞台が動かないせいで「魔女がHoldと言ってマクベスが止まる、マクダフが今だ~!となって負けるけど、負けちゃうの?諦めが早くない?と感じてしまう」という話がありました。
英語と日本語の意味の幅広さの違いを、特にマクベス最期のenoughが4回続くところで感じた。それぞれに違う日本語を当てはめられても、観客を信用していないのか?と感じてしまう。
KG:enoughは字幕を三回直した。あれは台詞というより「音」なんだと思う。すべて違う意味、違う主語で言っている。繰り返しの後半二回はアウトにする(訳さない)選択肢もあった。ただそれをしても、日本語を変えすぎても、「逃げ」とか「想像力の幅を狭める」と捉えられるかもしれないし難しい。同じ言葉を重ねる限界。映画はすべて計算された上で意味を委ねる先に映像がある。舞台は生身の人間が演じていて、委ねる先が台詞という違いもある。
みなさんそれぞれで自分ならどうするか、訳してみてほしい。
MK:「王になる理由がない」ことを描きたかったのかなあ?
KW:「現代化」の弊害を個人的には感じている。今回も権威付けに崩壊が生じている。そのうち敬語も禁止用語になるのではと僕はよく言っているが、そういう禁止の先にあるのがこの「マクベス」なのでは。理想とされているものの危うさ。
MK:必ずしも同意をしてほしくて作っているわけではないので。見た時に言葉が出てくるか。
マクベス夫妻は子どもを「作れない」のか「作らない」のか。養子をとるなど解決策はあるのでは?と毎回思ってしまう。
KW:夫人はマクベスの前の旦那との間に子がいたのでは、と考えている。彼女は一度親になっているが、マクベスはなったことがない。だから残酷なことができる。[マクダフ夫人と子ども殺しのことかな?]
MK:庶民以外にとって「子」はとても大切。バンクォーとの絶対的な差として立ち現れている。二人には昔子どもがいたけど死んだ、というニュアンスの芝居も沢山ある。さみしさで繋がっている夫婦。
KW:男子の系譜が家を繋げていくイメージが共通としてある。
MK:だから今回はバンクォーの子どもが女性なので、そこの恐怖や絶望感が半減してしまっている印象もある。
「共犯である二人。夫人にとって出産は彼にしてあげられる中で最大の愛。だから養子は選択肢として無い」という意見もありました。
(場所の移動がないという話に関連して)作中の「イングランド」はどういう場所のイメージなのか?
KW[だったと思うのですがメモし忘れているので違ったら教えてください]:「素晴らしい国」としてでしょう。シェイクスピアは同時代のロンドンを描くことを基本的にしていない。イタリアとかウィーンとかがほとんど。検閲とかあるし、王権批判だと思われたらヤバい。ただ「よくOK取れたな」という作品もあるので、特別視はされていたと思う。
「マクベス」はジェームズ一世が即位した時に書かれた。彼はスコットランドからやってきた王様。これ以降、「イングランド」だけでなく[スコットランドを含めた]「ブリテン」という言葉が多用されるようになる。その点「マクベス」は微妙な筋に思われるかもしれないが、「あなたがやって来たのでイングランドは豊かになったのです」という意味にも取れる。「男子の系譜で国が続く」で最前で鑑賞している王に鏡を向けて、「あなたのおかげで!」とアピールしたり。そういう空気を読むのもシェイクスピアは抜群に巧かった。
ここで終了時刻となり、解散でした。
感想
正直ちょっと身構えていた部分はあったんだけど、ディスカッションというよりは高尚なファンミーティングという感じで楽しかった。たぶん貴族の催すところの「サロン」とかこんなのだったと思う。お茶とお菓子も出てきたし。ゲスト含めわりとみんなお上品におdisりになられていたので、嫌味で無く「そういうのもアリなんだ」と思った。欠点を指摘するのではなく「何故こういう改変をしたのか?その影響は?」と不思議を追求する感覚。学問だ。
舞台自体が斬新な(この解釈は幅広い)演出だったこともあり、「こう見ればよい」と一方的に教えられるのではなく、「私はこう思った」という視点・意見を持ち寄って各々見解を話す、というまさに「語る会」になっていたと個人的には思う。こと「マクベス」に限ってはゲストの先生方よりも詳しい、熱意があるという方も多かったのでは。
褒めてたはずがいつの間にか「ここをこうしてくれたら・・」という愛のある愚痴になっていたりとか、何度やっても「結局ローリー・キニアはめっちゃ巧い」という結論に達してしまうとか、よくツイッターで見かけるし、やる。
舞台そのものもだし、飛び交う意見を受け止める教養が自分になさ過ぎる~~~と凹むのもそれはそれで。「わかんないことを聴きに行こう」というより(勿論それでもいいし、実際解決された疑問もあった)「わかんないことも知りたいけど、それはそれとしてこう思ったし、聞いてほしいしみんなのも知りたい」という気持ちの方が楽しめると思う。NTLiveの存在意義、みたいなのを勝手に感じた。
初回なんだし終わったあとにアンケートでも取ってフィードバックすればいいのにな~と思ったけど、参加者の反応が仕込みを疑うレベルで(絶賛ベース)すごくよかったからな。ゲストからも「楽しいですね」「またやりたいですね」という声が自発的に上がっていた。
シェイクスピアで人気のある役者でという回と、比べてしまえばそうではない回で雰囲気と内容に差が出来る(と思うし、それがどう転ぶか)が今後気になる。個人的にはもっと若い作家のLiveを見てみたいし、語ってみたいかな。なんにせよ続くといいですね。具体的には7月上映のアレルヤ!まで。アレルヤ!まで。アレルヤ!まで・・(トゥモロースピーチやめろ)
この熱量でアレルヤ!について聴けるなら靴も舐めるし当日なんでもする。なんでもだ。みんながバーネットはんの話する空間に放り込まれたらどうなっちゃうのか考えただけでグネグネしちゃうよ。ねえ、バーネットはん・・。
おわり
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